久しぶりに短編小説を3本書いた。
一つ目は「ゴーストバレーで朝食を」だ。
ストーリーは田舎暮らしをするために土地探しをしているアキオとハルミの若い夫婦が道に迷い、ある谷に迷い込む。帰り道を探そうとするのだが夕暮れになり、道がなくなっている。携帯電話も通じなくなり、すっかり焦ってくる。
そんなに山深く入っていったつもりはなかったのだが、まわりの景色を見るとどんどん深みに入っていく。
すっかり慌ててしまったハルミは慌てて足を滑らして崖から落ちてしまう。アキオは悲鳴を聞きすぐに助けようと降りて行くのだがハルミの姿がないのだ。
「おーい、おーい」と出せるだけの大きな声を上げるのだが反応がない。すっかり錯乱状態になってしまったアキオは狼狽と疲れにより座り込んで、ついに眠ってしまったのだ。
どのくらいの時間が過ぎたのか分からないが、小さな小屋の中で
目が覚めた。彼らはゴーストバレーに迷い込んでしまったのだ。このゴーストバレーは死んだはずの人たちが実はこの谷で生きて生活をしていたのだ。
行方不明者や海の事故で死亡とされた人、水害や台風で行方不明とされた人たちが実はこの谷で生活をしていたのだった。
そこからいろんな物語が始まるのだった。
二つ目は「知るべきか知らざるべきか」
がんセンターで出会ったスケさんとカクさんのユーモアと葛藤の30日間の病院生活を描いた短編小説だ。
カクさんは今年60歳を迎え、来年定年になる。奥さんとすでに結婚して家を出ている娘と近所の塾で講師をしている独身の息子がいる。
スケさんは55歳の独身。別れた奥さんのの間に娘が一人いる。
がんの検査の結果2人とも余命3カ月の胃がんと肝臓がんと診断された。2人の担当の医師であるミトは2人に告知するべきか否かを悩む。
2人とも結果を正直に言って下さい、とミトに言うのだが、
この2人の男の心の中の葛藤をユーモアを交えて対話方式で書いている。
生きるとは何か?命とは何なのか?なんていうたいそうことは語らず、ありのままの心の移り変わりを面白おかしく・・。
そして三つ目は「3人兄弟」だ。
長男は65歳、次男は55歳、3男は45歳の奇妙に10歳ずつ違う3人兄弟がお父さんお葬式の墓前で一晩中語り合う物語。
最初は自分がいちばん死んだお父さんから可愛がられていなかった、ということを言い合うのだが、最後は自分がいちばん可愛がられていた、と思うようになるのだ。
それぞれの世代(団塊の世代である長男、新人類と言われた世代の次男、バブル時代の3男)の悲哀を語り合う。
2010年01月24日
2008年11月14日
学校やテレビは本当のことを教えない。
環境を意識しながら
生活するようになったのは
高木氏との出会いが大きいことは否めない。
それまでも大学時代は山登りが好きで
よく山の大掃除などに参加しながら
山の環境を守る活動に参加したものだ。
20歳の半ば頃からリバーフィッシングに凝り
ルアーやフライでブラックバスやトラウトと
激しく格闘していた。
その頃もやはり自分たちが遊ぶ川や湖だから
出来るだけきれいにしたい、という思惑から
川を守る会などに参加し、
これまた掃除活動や自然環境を守るための
ダム建設の反対運動に参加していた。
動機はそれほど誉められるような
ものではなかったが、
やはり環境活動やエコロジーライフの
先駆けだったような気がする。
因みに今では当たり前のように使っている
「エコロジー」というコトバは
当時は生態学とか棲息理論のような意味で、
浜野安弘氏が使い始めていたような気がする。
しかし実際の生活ではせいぜい浜野氏が
当時、モータリゼーション社会の批判をしており、
象徴的な自転車生活をしていた、
ということもあって自転車生活に徹底したくらいで、
具体的に環境に適した生活をしよう、
とまではいかなかった。
90年代に入りバブルが崩壊して、
新たな生活スタイルやモデルを模索しはじめた
頃に人間の生きる価値判断を地球環境に置いた
ライフスタイルはとても新鮮だった。
しかしこれもすでにヨーロッパでは
ルーティンな生活スタイルであった、
ということで、新しさというよりは
あまりにも環境に抗った生き方をしていたか、
ということに知ったという衝撃の方が大きかったようだ。
象徴的なコトバとして「グリーンコンシューマ」
としての生き方の概念だ。
「グリーン・コンシューマ」は生活の主体を
経済ではなく環境を重視して生きていくスタイルのことだ。
分かりやすくいうと、出来るだけ自動車の利用を減らして
自転車や公共交通機関を利用しよう、
なんていうことなのだ。
因みに当時の「地球村」のパンフレットに
「これで100万円の節約」
マイカーをやめれば50万円、
タバコをやめれば10万円
お酒を減らせば10万円、
外食をやめれば20万円
コーヒーをやめれば20万円、
衝動買いをやめれば10万円
の節約が1年間にできる、と書いてあった。
ああ、すでに我が家は立派なグリーンコンシューマ
ではないか、とやけに優越感に慕ったものだった。
それからは結構楽しい精査の日々が続き、
今までの、当たり前だと思っていた価値観の
徹底検証にはいり、なかなか面白い発見の日々だった。
高木氏が一連の地球環境に関しての
活動を通して言わんとすることは
「事実を知る」ということがまず挙げられる。
つまり世の中の本当のことと学校で習うこととは
大きく違う、ということだ。
そういった教育をはじめテレビで言っていること、
新聞に書いてあること、人はいうことなどなど、
今までわれわれが当たり前のように信じてきたことを
一度白紙に戻して自分の頭で考えてみる、
ということだ。
最近ではよく「クリティカル・リテラシー」と言う
コトバを本や新聞などで目にする。
これは欧米社会では当たり前のことだが、
要は何事も鵜呑みにせずに、まず一度疑ってみて、
自分の頭で考えてみる、ということなのだ。
権威にひれ伏すのではなく、まず権威から疑ってみる、
ということだ。
テレビのいうことはそのテレビを支援しお金を出している
スポンサーの存在と、企業の思惑が隠れている、
というようなことだ。
少なくとも民放は原則、企業には逆らえないので
企業の不利益な放送はしない。
そして商品を売ること、不必要でも商品を売ろうとすること、
無知な消費者を作ろう、ということに
血まなこになっているということを頭に入れて
テレビを見ると、また違った意味で面白くなる。
高木氏が面白いのはまず自分の講演会のしょっぱなに、
「これからボクの言う事を、
すぐに信じないでください、まず疑って、
終わってから自分で考えてください・・・」と言う。
問題と回答だけの往復書簡の教育システムで
育ったボクたちに、考える、
ということはもっとも苦手な訓練かもしれない。
生活するようになったのは
高木氏との出会いが大きいことは否めない。
それまでも大学時代は山登りが好きで
よく山の大掃除などに参加しながら
山の環境を守る活動に参加したものだ。
20歳の半ば頃からリバーフィッシングに凝り
ルアーやフライでブラックバスやトラウトと
激しく格闘していた。
その頃もやはり自分たちが遊ぶ川や湖だから
出来るだけきれいにしたい、という思惑から
川を守る会などに参加し、
これまた掃除活動や自然環境を守るための
ダム建設の反対運動に参加していた。
動機はそれほど誉められるような
ものではなかったが、
やはり環境活動やエコロジーライフの
先駆けだったような気がする。
因みに今では当たり前のように使っている
「エコロジー」というコトバは
当時は生態学とか棲息理論のような意味で、
浜野安弘氏が使い始めていたような気がする。
しかし実際の生活ではせいぜい浜野氏が
当時、モータリゼーション社会の批判をしており、
象徴的な自転車生活をしていた、
ということもあって自転車生活に徹底したくらいで、
具体的に環境に適した生活をしよう、
とまではいかなかった。
90年代に入りバブルが崩壊して、
新たな生活スタイルやモデルを模索しはじめた
頃に人間の生きる価値判断を地球環境に置いた
ライフスタイルはとても新鮮だった。
しかしこれもすでにヨーロッパでは
ルーティンな生活スタイルであった、
ということで、新しさというよりは
あまりにも環境に抗った生き方をしていたか、
ということに知ったという衝撃の方が大きかったようだ。
象徴的なコトバとして「グリーンコンシューマ」
としての生き方の概念だ。
「グリーン・コンシューマ」は生活の主体を
経済ではなく環境を重視して生きていくスタイルのことだ。
分かりやすくいうと、出来るだけ自動車の利用を減らして
自転車や公共交通機関を利用しよう、
なんていうことなのだ。
因みに当時の「地球村」のパンフレットに
「これで100万円の節約」
マイカーをやめれば50万円、
タバコをやめれば10万円
お酒を減らせば10万円、
外食をやめれば20万円
コーヒーをやめれば20万円、
衝動買いをやめれば10万円
の節約が1年間にできる、と書いてあった。
ああ、すでに我が家は立派なグリーンコンシューマ
ではないか、とやけに優越感に慕ったものだった。
それからは結構楽しい精査の日々が続き、
今までの、当たり前だと思っていた価値観の
徹底検証にはいり、なかなか面白い発見の日々だった。
高木氏が一連の地球環境に関しての
活動を通して言わんとすることは
「事実を知る」ということがまず挙げられる。
つまり世の中の本当のことと学校で習うこととは
大きく違う、ということだ。
そういった教育をはじめテレビで言っていること、
新聞に書いてあること、人はいうことなどなど、
今までわれわれが当たり前のように信じてきたことを
一度白紙に戻して自分の頭で考えてみる、
ということだ。
最近ではよく「クリティカル・リテラシー」と言う
コトバを本や新聞などで目にする。
これは欧米社会では当たり前のことだが、
要は何事も鵜呑みにせずに、まず一度疑ってみて、
自分の頭で考えてみる、ということなのだ。
権威にひれ伏すのではなく、まず権威から疑ってみる、
ということだ。
テレビのいうことはそのテレビを支援しお金を出している
スポンサーの存在と、企業の思惑が隠れている、
というようなことだ。
少なくとも民放は原則、企業には逆らえないので
企業の不利益な放送はしない。
そして商品を売ること、不必要でも商品を売ろうとすること、
無知な消費者を作ろう、ということに
血まなこになっているということを頭に入れて
テレビを見ると、また違った意味で面白くなる。
高木氏が面白いのはまず自分の講演会のしょっぱなに、
「これからボクの言う事を、
すぐに信じないでください、まず疑って、
終わってから自分で考えてください・・・」と言う。
問題と回答だけの往復書簡の教育システムで
育ったボクたちに、考える、
ということはもっとも苦手な訓練かもしれない。
2008年11月13日
人生最大の戦いか、家の中の「整理整頓」
毎日頭を悩ますのが部屋の整理整頓。
いくら片付けても片付かない。
一生懸命に掃除をしていても、
子どもは、
「父さんの掃除は掃除ではなくて
ものが移動しているだけで
片付いているのとは違うぞ・・・」
と抜かす。
掃除機をあてるとたしかにホコリや
小さなゴミなどは綺麗になって、
それはそれで気持ちのいいものではあるが、
これも我が家にとっては焼け石に水、
というところがある。
基本的に掃除は何を残して何を捨てるか、
というところまで追い込まれている。
ここで整理するに当たって
前に立ちふさがっている大きな壁が
何故か捨てられない、そのモノにたいしての
拘りのようなものがなかなか
捨てられないのだ。
昔のややきつくなったスーツやジャケット
もう一生使うこともないと思えるバッグや装飾品
友達が記念と言って作ってくれた
本棚やロッキングチェアー、彫刻品。
それのより大きいのがレコードや本、
ビデオテープなどだ。
このあたりをどう整理していくか、
捨てていくか、ということだ。
音楽関係の仕事をしている友人は
就職してからすべてのお金をつぎ込んでいた
というレコードやCD・楽器・本などなど、
を捨てることができず、
そのためにトランクルームを
月2万円の出して借りているのだ。
捨てたら気が楽だろうと本人も思うのだが
やはり思い出が凝縮したモノを捨てる、
ということは我が身を削られるようで
苦しいことだ、と言うのだ。
持っていても苦しい、捨てても苦しい、
同じ苦しむなら、捨てればいい、と思うのだが。
その気持ち、ボクにも分からないでもない。
人間、普通に生きていたら、
当然モノは増えていく。
居住空間が増えない、としたら、
当然、増える分だけは何かを
捨てなければならない。
結局、思い出のなかにある不良在庫を
どう踏ん切りして捨てていく、
という決断だろうか・・。
しかし考えてみると「整理する」ということは
別段、すべて不必要なものを捨てることでなく
必要なものが、必要な時にすぐに取り出せる、
ということが出来るのであれば、それでいいので、
「うわー、汚い」という状態を避けることが
出来ればいいことなのだ、と思う。
ああ、考えれば考えるほどボクの
頭の中は混乱してくる。
頭の中の整理を先に
しなければならないのだ、
と分かっているのだが・・・。
そうこう思いながら部屋を
片付けていたら、次男が
「あまりいろわんとって
また探すのが大変だから・・」と言うので
「探しやすいようにしたらええやろ」
と言い返すと
「なかったらなかったで
その時探したらええやん、
探すこともまた勉強だよ。
オレのものはそっとしといてくれ」
なんて偉そうに・・・。
いくら片付けても片付かない。
一生懸命に掃除をしていても、
子どもは、
「父さんの掃除は掃除ではなくて
ものが移動しているだけで
片付いているのとは違うぞ・・・」
と抜かす。
掃除機をあてるとたしかにホコリや
小さなゴミなどは綺麗になって、
それはそれで気持ちのいいものではあるが、
これも我が家にとっては焼け石に水、
というところがある。
基本的に掃除は何を残して何を捨てるか、
というところまで追い込まれている。
ここで整理するに当たって
前に立ちふさがっている大きな壁が
何故か捨てられない、そのモノにたいしての
拘りのようなものがなかなか
捨てられないのだ。
昔のややきつくなったスーツやジャケット
もう一生使うこともないと思えるバッグや装飾品
友達が記念と言って作ってくれた
本棚やロッキングチェアー、彫刻品。
それのより大きいのがレコードや本、
ビデオテープなどだ。
このあたりをどう整理していくか、
捨てていくか、ということだ。
音楽関係の仕事をしている友人は
就職してからすべてのお金をつぎ込んでいた
というレコードやCD・楽器・本などなど、
を捨てることができず、
そのためにトランクルームを
月2万円の出して借りているのだ。
捨てたら気が楽だろうと本人も思うのだが
やはり思い出が凝縮したモノを捨てる、
ということは我が身を削られるようで
苦しいことだ、と言うのだ。
持っていても苦しい、捨てても苦しい、
同じ苦しむなら、捨てればいい、と思うのだが。
その気持ち、ボクにも分からないでもない。
人間、普通に生きていたら、
当然モノは増えていく。
居住空間が増えない、としたら、
当然、増える分だけは何かを
捨てなければならない。
結局、思い出のなかにある不良在庫を
どう踏ん切りして捨てていく、
という決断だろうか・・。
しかし考えてみると「整理する」ということは
別段、すべて不必要なものを捨てることでなく
必要なものが、必要な時にすぐに取り出せる、
ということが出来るのであれば、それでいいので、
「うわー、汚い」という状態を避けることが
出来ればいいことなのだ、と思う。
ああ、考えれば考えるほどボクの
頭の中は混乱してくる。
頭の中の整理を先に
しなければならないのだ、
と分かっているのだが・・・。
そうこう思いながら部屋を
片付けていたら、次男が
「あまりいろわんとって
また探すのが大変だから・・」と言うので
「探しやすいようにしたらええやろ」
と言い返すと
「なかったらなかったで
その時探したらええやん、
探すこともまた勉強だよ。
オレのものはそっとしといてくれ」
なんて偉そうに・・・。
2008年10月21日
生きるためには馬鹿を装うことも、
世の中には自分を実体より
大きく見せようとするものと
小さく見せようとするものがいる。
日本人の場合は大半が前者のような気がする。
僕の周りにも借金ばかりして豪邸に住んだり、
ベンツやポルシェを乗り回し、
アルマーニの背広や、森英恵のフォーマルドレス、
ルイビトンのバックなどなど
高級ブランドばかりで埋もれている人がいた。
まあ、そういったライフスタイルの人の
ほとんどは幸か不幸か、
ここ10年でほとんど等身大の生活を
余儀なくされているか、
いなくなってしまったかの
どちらかだ。
これがいいわるいは別にして、
ある意味アダムスミスがいうような、
「神の見えざる手」が働いているんんだな
とついつい思ってしまう。
それにしても「諸行無常」というコトバは
まさしく人生そのものなのだ。
奢れるものは久しからず、
ただ秋の露の如し。
神戸で雑貨屋さんをしているメイリンさんは
上海出身の華僑だ。
お父さんの財産を受け継いで商売をしている。
ここだけの話しだけど、かなり資産家だ。
でもどう見ても資産家には見えない。
年齢不詳で自分も本当の年齢を知らない、
なんて言っている。
おそらく30歳過ぎ、くらいではないか、
と思うのだが、見た目は日本人的に言えば、
普通の40歳のオバちゃんに見える。
彼女は全然おしゃれはしないし、
服も地味なものばかりだから・・・・。
髪も白髪が混じっている。
まあ、一説に、あれは染めている、
と言われている。
中国に住んでいた先祖や父親から、
常ずね言われていたのが、
金持ちに見えないように生きなさい。
周りから嫉妬されないような生き方をしなさい、
ということだ。
彼女の家族は中国華南では代々の
インテリ家族で地域の名士だったので、
けっこう政府から狙われていた、
ということだ。
親戚も文化大革命や天安門事件前後に
各地へ亡命しているらしく、
香港やカナダ、インドネシアなどに
親戚や友人がたくさんいるらしい。
彼女の先祖の故郷になる広東省や福建省の
金持ちはとても地味な生き方をするらしい。
商いも目立たないようにする。
これは家族、同族が生きていくための智恵だ、
と言う。
彼女の住んでいる家もそれほど大きくなく、
とても質素なたたずまいだ。
娘さんも塾にも行かず、家で勉強するだけで、
公立の中学に行っている。
自分の大きさも分からない人に等身大の生き方、
なんていったところで分かる訳ないのだが、
とりあえずやはり何らかの物差しの中で、
凡その自分を知ることは、必要なことだろう。
しかしまだ、50歳や60歳を過ぎた
いい年齢をして、「自分探し」や「サクセスストーリ」、
「自分を信じて、明るい未来に挑戦するんだ」
なんて言っているものも、まだ何人かいるのだ。
まあ、それはそれで若さを保つための
酔狂としてはいいのだが・・・・。
薩摩藩や長州藩、加賀藩などは
常に幕府に狙われており、
代々の藩主はいつも馬鹿の振りをしていた。
つねに周りを騙し続けることが
藩の生きる道だったのかもしれない。
そういえば信長も若い頃は
虚けの振りをしていたのだった。
大きく見せようとするものと
小さく見せようとするものがいる。
日本人の場合は大半が前者のような気がする。
僕の周りにも借金ばかりして豪邸に住んだり、
ベンツやポルシェを乗り回し、
アルマーニの背広や、森英恵のフォーマルドレス、
ルイビトンのバックなどなど
高級ブランドばかりで埋もれている人がいた。
まあ、そういったライフスタイルの人の
ほとんどは幸か不幸か、
ここ10年でほとんど等身大の生活を
余儀なくされているか、
いなくなってしまったかの
どちらかだ。
これがいいわるいは別にして、
ある意味アダムスミスがいうような、
「神の見えざる手」が働いているんんだな
とついつい思ってしまう。
それにしても「諸行無常」というコトバは
まさしく人生そのものなのだ。
奢れるものは久しからず、
ただ秋の露の如し。
神戸で雑貨屋さんをしているメイリンさんは
上海出身の華僑だ。
お父さんの財産を受け継いで商売をしている。
ここだけの話しだけど、かなり資産家だ。
でもどう見ても資産家には見えない。
年齢不詳で自分も本当の年齢を知らない、
なんて言っている。
おそらく30歳過ぎ、くらいではないか、
と思うのだが、見た目は日本人的に言えば、
普通の40歳のオバちゃんに見える。
彼女は全然おしゃれはしないし、
服も地味なものばかりだから・・・・。
髪も白髪が混じっている。
まあ、一説に、あれは染めている、
と言われている。
中国に住んでいた先祖や父親から、
常ずね言われていたのが、
金持ちに見えないように生きなさい。
周りから嫉妬されないような生き方をしなさい、
ということだ。
彼女の家族は中国華南では代々の
インテリ家族で地域の名士だったので、
けっこう政府から狙われていた、
ということだ。
親戚も文化大革命や天安門事件前後に
各地へ亡命しているらしく、
香港やカナダ、インドネシアなどに
親戚や友人がたくさんいるらしい。
彼女の先祖の故郷になる広東省や福建省の
金持ちはとても地味な生き方をするらしい。
商いも目立たないようにする。
これは家族、同族が生きていくための智恵だ、
と言う。
彼女の住んでいる家もそれほど大きくなく、
とても質素なたたずまいだ。
娘さんも塾にも行かず、家で勉強するだけで、
公立の中学に行っている。
自分の大きさも分からない人に等身大の生き方、
なんていったところで分かる訳ないのだが、
とりあえずやはり何らかの物差しの中で、
凡その自分を知ることは、必要なことだろう。
しかしまだ、50歳や60歳を過ぎた
いい年齢をして、「自分探し」や「サクセスストーリ」、
「自分を信じて、明るい未来に挑戦するんだ」
なんて言っているものも、まだ何人かいるのだ。
まあ、それはそれで若さを保つための
酔狂としてはいいのだが・・・・。
薩摩藩や長州藩、加賀藩などは
常に幕府に狙われており、
代々の藩主はいつも馬鹿の振りをしていた。
つねに周りを騙し続けることが
藩の生きる道だったのかもしれない。
そういえば信長も若い頃は
虚けの振りをしていたのだった。
2008年10月19日
「夢」や「成功」などといった罠に陥らない
銀行や金融機関の「貸し渋り」や「貸しはがし」
またまた「差し押さえ」などの報道が目に付く。
町内会で気の会うシマ君は2年前
近所にある大手住宅メーカーの家を買った。
値段も4000万円近くかかったようで
このあたりでは結構高級な家になる。
しかし彼の年収はせいぜい300万円余りで、
生まれたばかりの2人目の子どもがいて、
奥さんは子育てに奔走中で仕事はしていない。
その彼が半年前にリストラで会社を
辞なければならなくなった。
当初は両親からの支援でなんとか
家のローンを払い続けていたのだが、
ここにきてやはりそれなりの収入のある
仕事先も見つからないようで、
ついに家を手放す決心をした。
買った住宅メーカーの担当者に
「いくらで売れますか?」
と聞いたところ、
「せいぜい2500万円が
いいところかもしれませんね、
でもすぐには売れないでしょう・・」
と言われたらしい。
それでも売れればローンはなくなるようだが
自己資金の1500万円は
すべて失うことになってしまうのだ。
夫婦で10年間働いてためた1000万円と
親から貰った500万円の損失は彼の人生にとって
大きいつまずきになってしまった。
なぜ彼のような悲劇になるのか
それには大きな落とし穴があった。
住宅会社は家は売れればあとは
買い手がどうなろうと関係ないから
支払いがぎりぎりでも、
破綻は見えていても売ろうとする。
あれやこれやの手を使ってローンを組んでしまう。
5年後10年後には利息が上がって
行きづまることがわかっていても・・・。
また買う方も収入は将来も増え続けると思ったり
両親もいずれ亡くなって財産を相続するものだ、
と思っているのだろう。
彼のようなローン破綻をしたものや、
あるいはこれから近いうちに破綻するだろう、
と思われるものが増えている。
また夢と希望に溢れて起業はしたものの
思うように業績があがらず返済不能に陥るものも
多くなっている。
担保の不動産は差し押さえになり
保証人には代理弁済として支払い義務が
生まれる。
金融機関は手を返したように
融資金の全額回収に走り、
素直に応じなければ有無をいわさず
法的手段に訴えていく。
まして無担保で貸している消費者金融などの
取立ては凄まじい。
どんどん借り手を追い詰めていく。
英会話の「ノバ」や留学の「ゲートウェイ21」
など若者の夢や希望を食い物にした詐欺事件が
増えている。
この際「成功の人生」とか「夢と希望」などに
もう一度慎重になってみてはどうだろうか?
安易な投資はパチンコや競輪などの
ギャンブルと同じところにある、
ということを考えてみたらどうだろうか?
またまた「差し押さえ」などの報道が目に付く。
町内会で気の会うシマ君は2年前
近所にある大手住宅メーカーの家を買った。
値段も4000万円近くかかったようで
このあたりでは結構高級な家になる。
しかし彼の年収はせいぜい300万円余りで、
生まれたばかりの2人目の子どもがいて、
奥さんは子育てに奔走中で仕事はしていない。
その彼が半年前にリストラで会社を
辞なければならなくなった。
当初は両親からの支援でなんとか
家のローンを払い続けていたのだが、
ここにきてやはりそれなりの収入のある
仕事先も見つからないようで、
ついに家を手放す決心をした。
買った住宅メーカーの担当者に
「いくらで売れますか?」
と聞いたところ、
「せいぜい2500万円が
いいところかもしれませんね、
でもすぐには売れないでしょう・・」
と言われたらしい。
それでも売れればローンはなくなるようだが
自己資金の1500万円は
すべて失うことになってしまうのだ。
夫婦で10年間働いてためた1000万円と
親から貰った500万円の損失は彼の人生にとって
大きいつまずきになってしまった。
なぜ彼のような悲劇になるのか
それには大きな落とし穴があった。
住宅会社は家は売れればあとは
買い手がどうなろうと関係ないから
支払いがぎりぎりでも、
破綻は見えていても売ろうとする。
あれやこれやの手を使ってローンを組んでしまう。
5年後10年後には利息が上がって
行きづまることがわかっていても・・・。
また買う方も収入は将来も増え続けると思ったり
両親もいずれ亡くなって財産を相続するものだ、
と思っているのだろう。
彼のようなローン破綻をしたものや、
あるいはこれから近いうちに破綻するだろう、
と思われるものが増えている。
また夢と希望に溢れて起業はしたものの
思うように業績があがらず返済不能に陥るものも
多くなっている。
担保の不動産は差し押さえになり
保証人には代理弁済として支払い義務が
生まれる。
金融機関は手を返したように
融資金の全額回収に走り、
素直に応じなければ有無をいわさず
法的手段に訴えていく。
まして無担保で貸している消費者金融などの
取立ては凄まじい。
どんどん借り手を追い詰めていく。
英会話の「ノバ」や留学の「ゲートウェイ21」
など若者の夢や希望を食い物にした詐欺事件が
増えている。
この際「成功の人生」とか「夢と希望」などに
もう一度慎重になってみてはどうだろうか?
安易な投資はパチンコや競輪などの
ギャンブルと同じところにある、
ということを考えてみたらどうだろうか?
2008年10月18日
貧困層を作為的に作り出す先進諸国の思惑
もともとアメリカという国は格差があった。
しかし日本も同じような格差社会になりつつある、
と言われている。
こういった格差や貧困は日米だけでなく
ドイツやフランス、イギリスといった
比較的社会福祉制度の整った
欧州の先進国まで及びはじめ、
すべての先進国のグローバルな
社会現象となっている。
なぜこういった格差社会に
なっていくのだろうか。
それにはいろんな原因はあるのだが、
まずは今の政治や経済システムにとって
そのほうが都合がいいから、
ということがあげられる。
もともと先進国と途上国との間には
大きな差があった。
しかし近年、途上国の経済発展などで
どんどん差が縮まってきた。
そうなると、その格差を先進国の中でつけなくては
ならなくなってきたのだ。
また工場を中国や東南アジア、インドなどの
途上国に移転されてくると
昔は経済成長するためにはある程度
国内で必要だった優秀な労働力が
必要でなくなったのだ。
それよりむしろアメリカなどでは
あまり賢くない消費者を必要としているのだ。
消費者金融で借りてでも、
いらないものを買ってくれる人や
金利の高いローンで広い家を買ってくれる人、
またまた劣悪な条件でもよく働いてくれる
労働者を質の高い労労働力や、
高い技術力を持っている労働者よりも
都合がいいのだ。
現在のポスト産業化社会はモノがあふれており
必要なものや価値を増やすことで
全体の富を増やすことがだんだんとできない時代だ。
みんなで豊かになる、ということはできないのだ。
誰かが豊かになれば誰かが貧しくなるし、
誰かが貧しくなった分は誰かが豊かになれる、
といったもモグラたたき経済になってしまった。
日本の貧困率はОECD加盟国で
第2位だと言われている。
現在のアメリカは裕福な人の住むところと
貧乏な人の住むところは違う。
どんどん住み分けが進んでいる。
貧困層は犯罪率の高いところに住んで
身の危険を常に感じながら生きなければならない。
また貧困層には肥満がどんどん増えている。
健康でいい食事が出来ないために
コカコーラやハンバーグ、ジャンクフードばかり
食べるような生活をして、
自分の将来のことなど考えないから
自分の健康のことなんて考えることなどできない。
もちろん健康保険なども入れないのだ。
大リーグ松坂大輔投手のいる
レッドソックスやハーバード大学などのある
マサチューセッツ州のボストン市は、
アメリカでは裕福な街で、
はじめて皆健康保険制度の出来た街なのだが、
現在も保険に加入できない人が30%以上いるのだ。
もちろん彼らはまといもな医療も受けられないのだ。
また銀行口座を持っていない人も
20%以上いるといわれており、その割合は
どんどん増えている。
現在の日本はアメリカほどの格差は
まだないようだが、
統計的に貧しい家庭は親自身も
教育に熱心ではない
ししつけもできていない、
といったデータがあるように
これからは貧困も世襲していくようだ。
アメリカの影響を受けて
日本も未曾有の不景気がやってきそうだ。
日本の住宅ローンの「ゆとり返済」などは
まさしく日本型サブプライムと言われるように
どんどん返済が不可能になり、
やがて大量の住宅破綻者がでて、
大量の貧困層が生まれるのではなかろうか。
いったいどうすれば貧困にならずにすむのか、
それはモノを買うのをやめるしかない。
消費の奴隷から一足先に抜け出すことを
考えるしかない。
しかしそれはそれほど難しいことではない。
しかし日本も同じような格差社会になりつつある、
と言われている。
こういった格差や貧困は日米だけでなく
ドイツやフランス、イギリスといった
比較的社会福祉制度の整った
欧州の先進国まで及びはじめ、
すべての先進国のグローバルな
社会現象となっている。
なぜこういった格差社会に
なっていくのだろうか。
それにはいろんな原因はあるのだが、
まずは今の政治や経済システムにとって
そのほうが都合がいいから、
ということがあげられる。
もともと先進国と途上国との間には
大きな差があった。
しかし近年、途上国の経済発展などで
どんどん差が縮まってきた。
そうなると、その格差を先進国の中でつけなくては
ならなくなってきたのだ。
また工場を中国や東南アジア、インドなどの
途上国に移転されてくると
昔は経済成長するためにはある程度
国内で必要だった優秀な労働力が
必要でなくなったのだ。
それよりむしろアメリカなどでは
あまり賢くない消費者を必要としているのだ。
消費者金融で借りてでも、
いらないものを買ってくれる人や
金利の高いローンで広い家を買ってくれる人、
またまた劣悪な条件でもよく働いてくれる
労働者を質の高い労労働力や、
高い技術力を持っている労働者よりも
都合がいいのだ。
現在のポスト産業化社会はモノがあふれており
必要なものや価値を増やすことで
全体の富を増やすことがだんだんとできない時代だ。
みんなで豊かになる、ということはできないのだ。
誰かが豊かになれば誰かが貧しくなるし、
誰かが貧しくなった分は誰かが豊かになれる、
といったもモグラたたき経済になってしまった。
日本の貧困率はОECD加盟国で
第2位だと言われている。
現在のアメリカは裕福な人の住むところと
貧乏な人の住むところは違う。
どんどん住み分けが進んでいる。
貧困層は犯罪率の高いところに住んで
身の危険を常に感じながら生きなければならない。
また貧困層には肥満がどんどん増えている。
健康でいい食事が出来ないために
コカコーラやハンバーグ、ジャンクフードばかり
食べるような生活をして、
自分の将来のことなど考えないから
自分の健康のことなんて考えることなどできない。
もちろん健康保険なども入れないのだ。
大リーグ松坂大輔投手のいる
レッドソックスやハーバード大学などのある
マサチューセッツ州のボストン市は、
アメリカでは裕福な街で、
はじめて皆健康保険制度の出来た街なのだが、
現在も保険に加入できない人が30%以上いるのだ。
もちろん彼らはまといもな医療も受けられないのだ。
また銀行口座を持っていない人も
20%以上いるといわれており、その割合は
どんどん増えている。
現在の日本はアメリカほどの格差は
まだないようだが、
統計的に貧しい家庭は親自身も
教育に熱心ではない
ししつけもできていない、
といったデータがあるように
これからは貧困も世襲していくようだ。
アメリカの影響を受けて
日本も未曾有の不景気がやってきそうだ。
日本の住宅ローンの「ゆとり返済」などは
まさしく日本型サブプライムと言われるように
どんどん返済が不可能になり、
やがて大量の住宅破綻者がでて、
大量の貧困層が生まれるのではなかろうか。
いったいどうすれば貧困にならずにすむのか、
それはモノを買うのをやめるしかない。
消費の奴隷から一足先に抜け出すことを
考えるしかない。
しかしそれはそれほど難しいことではない。
10月18日の土曜日
今日は10月18日の土曜日
秋とも言えず、もちろん夏などではない。
そんなどうでもいい日常。
秋とも言えず、もちろん夏などではない。
そんなどうでもいい日常。
2008年04月20日
結婚しない女、
朝、ゴミを捨てていたら
数年前学生だった女の子が
綺麗な娘になっていた。
ほんとうに子どもが大きくなるのは早い。
「綺麗になったね・・・」
といつものように白々しいお世辞を言うと、
「嫁入り前の娘をからかわんといてよ・・・・」
と笑いながら大きな声で応える。
案の定、独身だったようだ。
本当に独身の女が増えた。
近所でもけっこうわかい女性が多いのだが、
なぜかほとんどが独身なのだ。
小学校の教員をしているアイちゃんも
色白で可愛い顔をしているのだがなぜか独身だ。
もうかれこれ40歳くらいになるはずだ。
僕の知っている教員や看護師、
金融関係に勤めている女性はアイちゃんのように
独身が多いのだ。
たしかに教員などをしていると
お金には困らないし、一人で充分生活できるから
敢えて結婚を急ぐ必要がないのはよくわかる。
男以上に豪快なアイちゃんはいつも言うのだ。
「私それほどセックスが好きじゃないし、
けっこうわがままだし、人に縛られるのが嫌いだから、
どう考えても結婚する理由なんてないのよ・・」と。
今、夏休みなどは友だちと海外旅行をしたり
好きなイタリア料理の美味しい店を漁っている。
それに小学生の先生をしているからか子どもが欲しい
なんて思ったことは一度も無いというのだ。
「子どもなんてめんどくさいよね、
目の前にいるだけで腹が立つ、また自分の
子育てとなるとストレスは溜まるし、金はかかるし、
その上バカだったら落ち込んで、
人生憂鬱になるもんねェ・・・」
とあっけらかんと話すのだ。
こういった女性はたしかに増えている。
独身女性が増えたり少子化が進むのは女性の
経済的な自立がやはり大きな理由だろうが、
もう一つはメディアの影響も大きいようだ。
「こんな田舎には、まったくいい男がいないね、
私を奪って逃げてくれるような情熱的な男は
やはり外人になってしまうのかね・・・」
と言って海外で男を追いかけてい筋金入りの
「裸の女王様」のような、大きな勘違いを
生み出しているのではなかろうか。
最近、起こっている事件などを見ても
たしかに家族や子どもがらみが多くなっている。
こういった現状を直視すると
結婚したくない、とか子どもなんて入らない、
と言っている女性を責めることはできないと思う。
「勝手に親の快楽の結果、この世に
生み出されてしまった。
エライ迷惑な話だ・・・。」
と言うアイちゃんは悪い女かな・・・。
2007年04月30日
消費は記号の交換?
次男は携帯電話を持たないし、
あまり持ちたくもないようだ。
だから友だちからの電話は家にかかってくる。
話すことも同じ部屋にいる僕に筒抜けになるが、
大きな声で笑ったり、怒ったり、お構いなしのようだ。
ふと傍若無人な態度に見えてしまう。
中には2時間以上世間話をしていることもある。
「今のは携帯みたいだ、名古屋に行った友達からだよ、
いくらか掛かるんだろうかね」
と人事のようだ(本当に人事だ)。
彼はケチだから、長男が毎月5千円くらい
通話代を払っているのを見て、持ちたくない、
と思ったのだと思ったのだが、そうでもないようだ。
未だに理由は良く分からない。
携帯電話は、今では小学生でも持っている、
という事をよく聞く。
実際、次男が行っていた高校でも半分以上
持っていたようで、とくに女子は全員持っていたらしい。
それに現代のビジネスマンやOLは
ほとんど持っているのだろうが、
僕も携帯電話は一度も持ったことがないし、
なくても不便だと思ったことがない。
実際、昔は誰ももっていなかったのだから・・・、
あれば便利だな、と思ったことはなくはないのだが、
それほど必要に迫れられた、という気はしたことがない。
僕の友人の中には持っていないものがたくさんいる。
医者や医療関係者、エンジニア、飲食関係の知人は
持っていないものもけっこういる。
驚いたのは弁護士で持っていないものがいた。
理由は「意地」だけと言う。
なかなか気骨のある人だった。
おそらく次男も意地だと思う。
彼はよく言う、
「大衆の欲望の虜にだけはなりたくない、
今はその象徴が携帯だ、持つと俺の敗北だ・・・」
と本気かどうか分からないがよく言う。
世間的欲望との戦いだろうか、見てると面白い。
さていつまで続くことか・・・・。
人間は秩序だった意味のある願をもつ前に
混沌とした無意味な欲望に突き動かされている。
そもそも欲望とは何か、欲望の本質とは
どういったところにあるのかと考えてみると
まず食べなければ死んでしまう。
食べ物が欲しい、と感じることは生存にとって
充分意味がある。
服がなければ寒くて死んでしまいそうな時もある。
住みかがなければホームレスになってしまう。
ホームレスになっても死ぬ訳ではないが、
北海道などでは少しまずい。
さすがに札幌市でのホームレスはあまり聞いたことがない。
しかしながら、我々の願望の大半は生存の必要性とは
無関係なところにある。
たとえばスーツが40万円もするアルマーニのような高給な
服を着てみたい、という欲望は寒さから身を守る
ためのものではなく、高価な服を着て歩くことで、
他人から認めてもらいたい、と言う願望が
その行為の下に潜んでいる。
1千万円以上するポルシェに乗りたい、というのは
車本来の早く移動するための道具としてではなく、
他人に見せびらかしたい、という欲望がまず働いている。
つまり「もの」としての機能を超え、他者の承認、
という記号を欲しがっているのだ。
ダイヤモンドの指輪やルイ・ヴィトンなどの
ハンドバッグなどになれば、その高価なブランドに対して、
ほとんど実用性はない。
ビジネスよりも遊び道具として普及した
携帯電話を見れば分かるように、
現代では欲望の対象が実用から離れて来ている。
「もの」が単なる記号になって生活必需品としての
実態がなくなってきている。
このように現実の基盤を欠いた記号を
フランスのボードリヤールは「シミュラークル」と名づけた。
現代人は高価な服で競い合い、無意味な遊び道具を
持つことで、他者との関係を築いている。
「モノ」ではなく記号を通して他人と関わっている。
この行為を彼は「象徴交換」と呼んでいた。
象徴だけを交換することで成り立っている
現代の人間関係を揶揄したような表現かもしれない・・。
1ヶ月の生活費7万円以下のカンダ君に言わせると。
「俺の象徴交換はタマシイだ、他に何が必要か?」
とのオコトバ・・・・。
あまり持ちたくもないようだ。
だから友だちからの電話は家にかかってくる。
話すことも同じ部屋にいる僕に筒抜けになるが、
大きな声で笑ったり、怒ったり、お構いなしのようだ。
ふと傍若無人な態度に見えてしまう。
中には2時間以上世間話をしていることもある。
「今のは携帯みたいだ、名古屋に行った友達からだよ、
いくらか掛かるんだろうかね」
と人事のようだ(本当に人事だ)。
彼はケチだから、長男が毎月5千円くらい
通話代を払っているのを見て、持ちたくない、
と思ったのだと思ったのだが、そうでもないようだ。
未だに理由は良く分からない。
携帯電話は、今では小学生でも持っている、
という事をよく聞く。
実際、次男が行っていた高校でも半分以上
持っていたようで、とくに女子は全員持っていたらしい。
それに現代のビジネスマンやOLは
ほとんど持っているのだろうが、
僕も携帯電話は一度も持ったことがないし、
なくても不便だと思ったことがない。
実際、昔は誰ももっていなかったのだから・・・、
あれば便利だな、と思ったことはなくはないのだが、
それほど必要に迫れられた、という気はしたことがない。
僕の友人の中には持っていないものがたくさんいる。
医者や医療関係者、エンジニア、飲食関係の知人は
持っていないものもけっこういる。
驚いたのは弁護士で持っていないものがいた。
理由は「意地」だけと言う。
なかなか気骨のある人だった。
おそらく次男も意地だと思う。
彼はよく言う、
「大衆の欲望の虜にだけはなりたくない、
今はその象徴が携帯だ、持つと俺の敗北だ・・・」
と本気かどうか分からないがよく言う。
世間的欲望との戦いだろうか、見てると面白い。
さていつまで続くことか・・・・。
人間は秩序だった意味のある願をもつ前に
混沌とした無意味な欲望に突き動かされている。
そもそも欲望とは何か、欲望の本質とは
どういったところにあるのかと考えてみると
まず食べなければ死んでしまう。
食べ物が欲しい、と感じることは生存にとって
充分意味がある。
服がなければ寒くて死んでしまいそうな時もある。
住みかがなければホームレスになってしまう。
ホームレスになっても死ぬ訳ではないが、
北海道などでは少しまずい。
さすがに札幌市でのホームレスはあまり聞いたことがない。
しかしながら、我々の願望の大半は生存の必要性とは
無関係なところにある。
たとえばスーツが40万円もするアルマーニのような高給な
服を着てみたい、という欲望は寒さから身を守る
ためのものではなく、高価な服を着て歩くことで、
他人から認めてもらいたい、と言う願望が
その行為の下に潜んでいる。
1千万円以上するポルシェに乗りたい、というのは
車本来の早く移動するための道具としてではなく、
他人に見せびらかしたい、という欲望がまず働いている。
つまり「もの」としての機能を超え、他者の承認、
という記号を欲しがっているのだ。
ダイヤモンドの指輪やルイ・ヴィトンなどの
ハンドバッグなどになれば、その高価なブランドに対して、
ほとんど実用性はない。
ビジネスよりも遊び道具として普及した
携帯電話を見れば分かるように、
現代では欲望の対象が実用から離れて来ている。
「もの」が単なる記号になって生活必需品としての
実態がなくなってきている。
このように現実の基盤を欠いた記号を
フランスのボードリヤールは「シミュラークル」と名づけた。
現代人は高価な服で競い合い、無意味な遊び道具を
持つことで、他者との関係を築いている。
「モノ」ではなく記号を通して他人と関わっている。
この行為を彼は「象徴交換」と呼んでいた。
象徴だけを交換することで成り立っている
現代の人間関係を揶揄したような表現かもしれない・・。
1ヶ月の生活費7万円以下のカンダ君に言わせると。
「俺の象徴交換はタマシイだ、他に何が必要か?」
とのオコトバ・・・・。
2007年04月13日
絶望するほどひどくない、
高校時代の同級生のソガ君が
脳梗塞で倒れたのは15年前だ。
それから1年間は入院やリハビリで、大変だった。
発見が早かったのと、適切な処置が施されたため、
社会復帰は早かった。
しかし、少し動くと疲れて、なかなか思うように体が動かず、
疲労感やストレス、心労で奥さんを殴ったり、
大声でその怒りをぶつけていた。
結局、2年後に離婚した。
どちらが悪い、と言う訳でもなく、
奥さんとしても、病気の介護や生活に疲れ、
もう我慢が出来なくなった、ということだ。
幸い、と言うか子どももいなかったし、
彼がそれなりの慰謝料を払うことが出来、
すんなりと離婚は成立した。
人も羨むような美人の奥さんと結婚し、
ディンクスなんて言いいながら、毎年世界旅行をしたり、
高級なフランス料理店をはじごしたり、
まさに「快適な生活」をしていたのだが、
その生活は病気で一転してしまったのだ。
その後、彼は親元に帰り、親と一緒に生活し、
父親の経営しえいる店の手伝いで何とか生計を立てていた。
しかししばらくして、父親も病気でなくなり、母親も認知症になり、
生活は苦境に立たされた。
当面は店を閉めて、土地などの資産を売却し、
貯金も切り崩しながら母を介護する生活をおくるようになった。
脳梗塞はいちど患うと何度も同じような症状が出るらしく、
薬を離せないし、定期的に病院にも行くらしい。
思うように動かない身体、狂ってしまった人生設計、
心も身体もどん底の状態だった。
まあ、もともと育ちがよく、おうらかな性格だけに、
なんとかこつこつとは生きてきたのだが、
2年前、また脳梗塞を再発し、倒れてしまった。
やっと歩けるようには回復したが仕事は無理だ。
資産もほとんど使い果たし、
このままでは生きていけない、
という状況まで追い詰められた。
慢性的障害もあるし、社会復帰は難しいので
生活保護で食べていくように助言したが、
彼は受け付けない。
もともと地元では資産家であり名士だった、というプライドが、
それを許さなかった。
去年、ついに家も売り、無一文になってしまい、
自殺未遂するまで追い詰められてしまった。
性格も変わってしまい、人間不信になり、
引きこもり始めた、そして分かれた奥さんにまるで
ストーカーのような行為までするようになったのだ。
生活の不安や将来の不安が彼の精神を蝕んでいった。
ついには警察にも迷惑をかけるまで至り、
このままでは何をするか分からない、ということで、
民生委員の方と一緒に、申請をさせたのだ。
「人生は不公平だし、理不尽なことばかりだ、
ひどい世の中だと思う、しかしとことん絶望するほどは
ひどくないと思うよ・・・・、」
とロシアの文豪の言葉を繰り返した。
「生きていれば、何かいいこともあるよ」
と言葉を浴びせた。
彼はもう生きる、というよりは死ぬのが面倒くさくなった、
てな感じになってしまったようだ。
先月、保護申請が認められ、当面、
生活の心配はなくなった。
強張っていた表情も穏やかになり、
やっと人間らしい生活が送れそうだ、と呟いた。
昔のような笑い顔やユーモアも出るようになった。
とにかく生きていれば、
それだけで嬉しい時はいい時のような、
そんな気がした。